国宝「風信帖」は、空海が最澄にあてた手紙として、あまりにも有名です。
現在は、京都の東寺に所蔵されていて、数年に1度、展示されることがあります。
私も拝観したことがあります。
さて、この手紙を読むと、”人間・空海”のいろいろな部分が見えてくるように思います。
内容は、最澄からの手紙への返信で、
「あなたのいらっしゃる比叡山に行きたいのはやまやまだが、
どうしてもいけません。今、予定に追われています。
そこで、仏のご恩に報いるために、私と、あなたと、
奈良の室生寺の堅慧(”けんね”空海の弟子)とで、
一堂に集まって議論をしましょう。
ぜひぜひ、あなた様が私のところへお越しください。」
簡単に書くとそんな内容です。
空海は遣唐使として中国にわたり、当時の最先端である密教を
唐の恵果阿闍梨から、すべて伝授されて日本に帰ってきます。
この時代、空海は日本ではほとんど無名のお坊さんでした。
一方、最澄は時の天皇から篤い信頼を受け、すでにビッグだったわけです。
最澄も密教を学んだのですが、一部しか持ち帰れませんでした。
そこで、何としてでも学びたいという一心で、
自分よりも立場もキャリアも下であった、当時無名に近い空海に
密教を学ぶために弟子入りすることになります。
この時点で相当特殊な関係の2人でしたが、
空海はぶっちゃけ最澄のこと、どう思っていたのでしょうか?
それを、書から読み取ってみたいと思います。
これは、あくまで私の個人的な解釈です・・・。
まず、大先輩である最澄さんにあてたわけですから、
文章も非常に敬意をこめ、自分を謙遜して書かれています。
ところが、空海という人、実に面白い。
唐から帰ってすぐのころ、密教を広めるため、
時の天皇である嵯峨天皇を味方にしようと考えます。
嵯峨天皇は、書道が大好きでした。
余談ですが、嵯峨天皇、空海、橘逸勢の3名を、我が国の代表的な
書の名人として、「三筆」と呼ぶことがあります。
そこで、中国から持ちかえった貴重な書の名品を献上したり、
自作の筆を献上し、書のレクチャーがてら作り方を伝えたり、
あの手この手で嵯峨天皇の心をつかむ努力をします。
また、このころは、
「自分は未熟者である」、といった表現をよく残したそうです。
ところが、後世になりますと、そういうへりくだった表現とかはあまり見られなくなります。
やがて嵯峨天皇は空海の弟子となり、
「嵯峨ちゃん、空海ちゃん」
くらいの間柄(?!)にまでなっていた。(定かではありません笑)
空海には、密教を学んだというプライドがあったと思います。
幾分、自信家という一面はあったでしょう。
風信帖の中には、自分の名前を書いている箇所、
「我」と書いている箇所もあります。
そこで注目すべきなのは「空海」の二文字のときには、
筆に力がこもっていて、肉厚な線を書いています。
最澄のことを「東嶺(比叡山のこと)金蘭法前」と書いていますが、
この部分は「空海」と書いてる箇所と比べたら、
ソフトな筆圧で書かれていて、また「法前」の部分に至っては、
かなり小さく書いています。
「我金蘭」の部分では、我は大きく力強く書かれていますが、
故事にちなんだ「金蘭」の部分は特に、蘭がちょっと雑に書かれているような気もします。
その次の行に「室山」とありますが、これは自分の弟子のことであろうとされ、
いわば空海の身内みたいなものでしょう。大きく力強く書かれています。
自分の名前を太い線で力強く書くというのは、ふつうはあまりしませんね。笑。
ここはおそらく、自信の顕れだと思います。
対して、最澄の名前を記載した箇所は細いかすれた線で書かれたりしています。
見方を変えれば、ふわっとした包み込むようなイメージ。
さて、最澄の書にもご注目ください。
空海と比べて、最澄の書は、王羲之書法に基づいた爽やかで清らかなきっちり整った書だと言えます。
たぶん、几帳面で堅実できまじめな性格だったのでしょう。
ダイナミックで変化に富んだ書を遺した空海とは、真逆な印象を受けます。
空海は、最澄に心のどこかで密かに、
「しっかりせいよ」
という思いがあったのかもしれません。
「最澄さん!もう少し要領よく立ち回れないですか?!」
と、そんなことを思ったかどうかは定かではありませんが。笑。
ここだけ読めば、空海が意地悪な人のような印象をうけるかもしれません。
が、決してそうではありません。
空海の書のおおらかさ、ふところの広さ、融通変化に富める才、
そのどれをとっても古今無双のものだと思うのです。
人は、どのような意識をもって生きるか、が大切だと思います。
たとえば、アスリートであれば、筋トレのための筋トレではだめだと思います。
どんなイメージをして、どこに向かうのか、どんな意識を持つのか、が大切です。
では、空海の意識は、どこにあったのでしょう。
きっと、宇宙に向いていたのでしょう。
一国家だとか一宗一派だとか一門の繁栄だとか、そんなちんけでちっぽけなレベルではない。
この青年僧には、一切衆生を仏の徳をもって救いたい、という”大欲”があった。
そして、その”大欲”を達成せんがために、天皇の心をなにがなんでもつかもうとするなど、
大きな目的のために、我を忘れ、我を捨てて、手段をいとわず行動できる。
彼のエネルギーが筆先を通じて世にあらわされた1つが、
この風信帖だと思います。
思うに、空海は、生真面目でかつ、一門の繁栄に守りに入り気味であった(?!)
最澄に対して、自らの筆意とか文字には起こさない行間というもので、
それとなく諫め、導こうとしたのではないでしょうか。
私には、そんな気がします。