書家 龍和の視点で、知られざる書の名品をご紹介します。
京都府立図書館の駐輪場にひっそりと建っている石碑があります。
幕末の志士として有名な、吉田松陰の詩を彫ったものです。
嘉永六年(1853年)10月2日に京都御所を拝した時の作です。
当時は、朝廷の力が地に落ちていましたので、
それを嘆き、いつの日か朝廷の権勢が復活する世の中が見たい、
という内容が書かれています。
山縣有朋の父、山縣有稔のために書き下ろし、
明治15年になって天覧され、皇室に献上されました。
松陰の五十回忌にあたる明治41年、
京都府教育会有志たちによって、石碑になりました。
それにしても、吉田松陰の書を見ていると、
全体的に右上がりの勢いのよい書体です。
筆跡心理学では右上がり強い文字を書く人は
誇り高いと分析するそうですが、
松陰も誇り高い人物だったのだと、この書が物語ります。
文章の最後に落款と言いまして、筆者の名前を書きますが、
そこには、「二十一回藤寅」 とあります。
藤寅は松陰の名前ですが、「二十一回」とは何でしょうか?
これは、「生涯に二十一回猛々しい行いをする」という松陰の思想を表しています。
二十一回という数字に関しては、
吉田松陰の姓である「吉田」から来ているという説があります。
「吉」の字を分解すると「十一」と「口」になり、
「田」の字を分解すると「口」と「十」になります。
「十一」と「十」、あわせて「二十一」、
「口」と「口」をあわせて「回」になります。
松陰の実家の姓である「杉」の字を分解し
「十」「八」「彡(三)」の三つの数字に見立て、
合算すると、これもまた「二十一」になります。
自分の2つの姓にちなんで、生涯の決意をしたと考えられます。
松陰はこれまでに
①東北旅行のための脱藩
②藩主に意見具申したこと
③ペリー来航時の密航「下田渡海」
の3回「猛」を発したとの考えを示しています。
余談ですが、松陰という名前は、彼より50年前に勤皇思想を説いた
高山彦九郎の戒名、「松陰以白居士」からとったものだという説があります。
しかし、生家のある松本村からとったという説もあり確証はありません。
----------------------------------------------------
石碑の訳
京都は山河にかこまれ、おのづから他とは異なる地になっている
江戸へ来てからも、一日としてこの神聖な京都を思わぬ日はない
この朝身を清め御所を拝した
政治に無縁のわたしも悲しみのあまり動くことができない
というのは朝廷の権威と権力が地に落ちて昔に戻ることはなく
周囲の山河だけが変わりなく残っているのがいたましいからだ
もれうけたまわれば、今上天皇は最上の徳をお持ちで
天を敬い人民をいつくしみ誠を尽くしておられる
日出には起きて身を清め
日本にたれこめた妖気をはらい太平をもたらすことを祈られると
いままでこのような英明な天皇はいなかったというのに
役人どもはのんべんだらりと時間つぶしをやっているだけ
なんとかして天皇の詔勅をうけたまわり精鋭なる全軍を動かし
思うままに天皇の権威を世界におよぼしたいものだ
なんて思っていてもわたしはゆくえも知れない浮草の身
ふたたび御所を拝する日が来るだろうか
---------------------------------------------------------------------------