9月。
夏の熱気がやわらぎ、稲穂が垂れはじめる季節。
この時期にふさわしい一字として選んだのが
「饒(じょう/ゆたか)」です。
「饒」とは、あまり日常で使う機会は少ない字ですが、
意味は非常に奥深い。
豊か、多い、ゆとりがある。さらには、
惜しみなく与える、恵む、という意味も含んでいます。
秋の収穫を迎える9月、自然からの恵みを受け取りつつ、
自らも与える存在となる――その循環を表すにふさわしい文字です。
■ 漢字としての「饒」
「饒」の構造を分解すると、偏(へん)は「食」。
食べる、糧を得ることを表す要素です。
旁(つくり)は「舌」。言葉や語りを示す要素です。
つまり「饒」は、身体を満たす食と、精神を満たす言葉、
この両方の豊かさを備えた文字なのです。
食べるものに困らず、心を養う言葉にも満たされる。
そんな状態を「饒」といいます。
この字には「物質的な豊かさ」と「精神的な豊かさ」が
同居している点が大きな特徴です。
■ 書としての「饒」
「饒」は字形が複雑で、線の数も多い字です。
しかし、単に整えて書こうとすると、
重く固い印象になってしまう。
そこで今回の書では、複雑さを逆手にとり、
線を大胆に崩し、余白に遊びを残しました。
-
偏の「食」は大きく開いて、器のようにすべてを受け止める姿に。
-
旁の「舌」は、流れるように走らせ、言葉が途切れず湧き出るイメージに。
-
全体の重心は低めに構え、豊かさの安定感を出しました。
線はたっぷり墨を含ませ、一気呵成に。
筆をためらえば窮屈になるため、
呼吸に合わせて大きく運び、余白の「間(ま)」に豊かさを託しました。
■ 制作時のエピソード
今回の作品は、早朝の稲荷参拝の帰りに取り組みました。
神社で受けた清々しい空気をそのまま墨に映したいと思い、
帰宅後すぐに硯を手に取ったのです。
実をいうと、最初の数枚はどうしても硬い仕上がりでした。
「豊かさ」というテーマを意識するあまり、力が入りすぎたのでしょう。
そこで一度筆を置き、ただ静かに墨の香りを味わいながら深呼吸を繰り返しました。
すると、ふっと「受け取る」という感覚が胸に広がったのです。
豊かさとは、自分が掴み取るものではなく、自然と巡ってくるもの。
その気づきの後に書いた一枚が、今回の作品となりました。
■ 豊かさの本質
「饒」という字は、単なる量的な「多さ」だけを指していません。
それは「分け与える余裕」「惜しみなく与える心」までを含んでいます。
現代社会では、多くの人が「足りない」と感じながら生きています。
もっとお金が必要だ、もっと時間がほしい、もっと評価されたい――。
しかし、実際にはすでに私たちのまわりには
「饒(ゆたかさ)」が溢れているのかもしれません。
秋に実る稲穂のように、自然は豊かさを惜しみなく与えてくれています。
私たちの仕事や人間関係も、心の持ちようひとつで「不足」から「饒」へと転じるのです。
■ 禅の視点から
禅には「知足(ちそく)」という言葉があります。
足るを知る――つまり、すでにあるものの中に豊かさを見出すという教えです。
「饒」の字が伝えるのも、まさにこの精神でしょう。
満ち足りていることに気づき、感謝し、さらにそれを分かち合う。
そのとき、心の中に本当の豊かさが芽生えます。
■ 今月の一字からのメッセージ
「饒」という文字を前にしたとき、ぜひ問いかけてみてください。
-
今、私がすでに持っている豊かさは何だろうか。
-
誰に、どのように分け与えることができるだろうか。
その答えは、決して大げさなものではなくて構いません。
家族への小さな思いやり、日々の仕事への誠実さ、それも立派な「饒」のかたちです。
■ 結びに
「饒」という文字は、9月の季節と呼応する一字です。
実りをいただき、心を満たし、そしてまた誰かへと分け与える。
そうした循環の中にこそ、真の豊かさが宿ります。
この一文字が、あなたの日常に小さな実りの気づきをもたらしますように。
📢 お知らせ
【今月の一字】は、次回以降、毎月の月初 に更新予定です。
10月は一体何か・・・?
次月もどうぞお楽しみに。