京都東山。
南禅寺界隈の日本庭園、名勝無鄰菴。
その見事な庭園もさることながら、
その題字に惹かれてしまいました。
母屋には題字の基になった書が飾ってあります。
この書は「長三洲」の書です。
あまりその名は聞き覚えがないかもしれませんが、
若いころから勤皇の志士として倒幕を志し、
薩長同盟に尽力。奇兵隊として戊辰戦争に参戦。
維新後は明治政府の官僚となりました。
洋学の福沢諭吉、漢学の長三洲と称され、
明治前半期の教育の双璧をなし、学制の基礎を築いた人物です。
同時に明治を代表する書家として知られ、
学校教育に習字を根付かせた功労者でもあります。
還暦を過ぎたころ揮毫されたこの書は、一分の隙も乱れもありません。
最晩年の書だということですが、
まさに死期が彼の書を高めたような厳かな氣に満ちています。
明鏡止水の境地といいますか、
曇りない運筆に本当に頭が下がります。
それにしても、この時代の日本の侍たちの教養の深さ、
識見は本当に高い水準だったのだな、と思います。
日本人がこれからの世界で活躍するには、
最先端の技術や英語力もさることながら、
自国で醸成されてきた文化の素養を身につけることが
とても大切なのではないかと感じます。
それは、先人たちとの対話でもあります。
先人たちの書を追体験できる「書」は、
すぐれた学びの手段になりうるでしょう。
先人の筆意や筆触が生き生きと息づく書。
どのような背景があり、筆者は何を志向し、死んだのか・・・、
最近の習字教育はだんだんと表面的な学習に偏っているような気がします。
技巧だけの習得にとどまらず、
先人たちの生きざまをももっと深く学ぶべきです。
長三洲もきっと喜ぶに違いありません。
以下は文の内容です。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
無鄰菴之記
文久慶応間 山縣伯相總管奇兵隊
是時内外忠難和踵 公奔走砲石間
不遑寧居 丁卯歳
四疆之事稍息 公於吉田山營之南
築小屋命曰無鄰菴 其地泉潔清砂白
繞以松竹 幽邃深A四無隣
竝有詩曰 清水山前遠市囂
疎松寂寂竹簫簫 有人若問吾茅屋
一經斜通獨木橋 然京師漢關東之事
殷憂未巳 明年國勢大變
天日再明 其後公位在内閣
孜々求治 未嘗得後孚樂之境也
今茲辛卯 卜別業於京師鴨川西涯高瀬分流處
老樹重陰 水行其際
蒼翠之色 潺湲之聲
怡目洗耳 殆忘在都門塵中埃
公復取舊號以名其居 蓋追憶往事
不能忍懐 故以明不忘舊之意也
命余書其扁 因再記其由爾
【意訳】
文久・慶応、年間、山縣伯爵は、奇兵隊総監にあり、この時、内外不穏で、
山縣は、戦地を駆け抜け、落ち着く暇もなかった。
時に慶応3年(1867年)のこと。
四境戦争が収束すると、山縣は、吉田山(山口県)の南に小屋を築き、無鄰菴と名付けた。
其の地は、渚、清く、砂白くして、周囲は松竹に囲まれ、
隣家のない閑静な處であった。
また、杜甫の詩にもあるように、
前は清水山で街から遠く、疎松は、寂寂、
竹は、簫簫(しゅうしゅう)風の音、
人ありて、若し問えば、吾は茅屋にあり。
見渡せば、斜通に、木橋あり。
然り、山縣、京都、特に、関東の事を憂う。
翌年、国勢は大変し、天日再明。
其の後、山縣は、内閣総理大臣にあり、政治に汲々とし、
未だこの仙人の境地を得られなかった。
明治24年(1891年)、 いまここに、
山縣は、別業を営み、京都鴨川西涯の高瀬川、分流の處 (木屋町二条の無鄰菴のこと)に、
老樹が陰を成し、その傍らに水が流れ、緑が美しく、鳥のさえずりが聞こえ、
目を洗い、耳を和(なご)ます。
殆ど、都門の塵中にあることを忘れる仙人境。
山縣、旧号・無鄰菴を以て、その居に名付ける。
およそ往事を思い出すに、忍び難く、
故に、以て往時の意を忘れず、明らかにするものである。
私(長 三洲)は、(山縣に)この篇額の書を依頼される。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^